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ピューリッツァー賞 栄光の舞台裏
世界のジャーナリストにとって最高の栄誉であるピューリッツッァー賞。日本人の受賞は30年間絶えている。受賞者にその舞台裏を聞いた。



米国フロリダ州の地方紙「マイアミ・ヘラルド」写真部員だったミシェル・ドウシール(42)が麻薬問題の写真ルポを考えたとき、取材はせいぜい数週間で終わると思った。が、結局、七カ月間という長期間に及んだ。しかも、通常のニュース取材を外れ、ルポだけに専従する異例の仕事になった。  

ドゥシールが取材対象に選んだのはマイアミ市郊外にある低所得者用の公営団地だった。クラック(コカインの一種)の売人が住み着き、住人が逃げた空き部屋にホームレス同然の中毒患者が流れ込む。麻薬をめぐるいざこざから、銃撃戦は日常茶飯事。にもかかわらず警察も行政も見て見ぬふり。荒廃しきったスラムだった。  

ドゥシールは、この危険な団地へ通うことから始めた。朝、会社へは行かず団地へ直行。最初、カメラは持たなかった。ジーンズにスニーカー姿で、住人たちと雑談する。身分は隠さなかった。なぜ写真を撮りたいのか、説明した。が、なかなか信用してくれない。そんな毎日が約三カ月続いた。  

そんな中に、麻薬ほしさに売春婦に堕した女性がいた。話をするうち、子供のために足を洗いたがっていることが分かる。カウンセリングを紹介したり相談相手になるうちに、信頼関係が芽生えた。  

これが突破口になって、売人、中毒者を含め住人は心を開いた。ペン記者を加え、本格的な取材を始めたが、それでもカメラは目立たないよう背中に隠したニコン一台だけ。フラッシュは使わない。電気のない薄暗いスラムで悪戦苦闘の連続だった。

「カメラを向けると、みんなポーズを取るんだ。でも僕はヤラセなしに現実をありのままに写したかった。写す対象に僕の存在を忘れてもらいたかった。それで時間がかかったんだ」  

クラックを吸う男のアップ。身の上を語りながら泣く女性中毒者。夜の路上で売人を待つ少年。そんな生々しい写真が八七年、八ページ掲載されると、囂々たる反響が起きた。警察は団地のパトロールに本腰を入れ、行政は不法占拠者を追い出した。出入りをチェックするゲートも作られ、売人は姿を消した。翌年、ドゥシールはピューリッツア賞を受賞する。  

ドゥシールは、動機を次のように説明する。

「売人が逮捕された、など通常の事件報道では、表面的すぎて不満だった。どうして彼らは売人や中毒者になるのか。貧困が背景にあるのではないか。彼らが子供のころ、何があったのか。そんな問題の根本を描きたかった」  

この例のように、写真を通じてニュースの背景を深く掘り下げる手法を「フォト・ジャーナリズム」という。社会的テーマを追う。カネ儲けを目的としない。時間をかけるのは同じでも、パパラッチ取材とは区別される。

が、新聞や雑誌など組織型ジャーナリズムでは、必ずしも歓迎される手法ではない。取材が数週間、数カ月にも及ぶことが多いから、専従させると人件費がかかる。その間日々のニュースを取材する仕事は同僚にしわ寄せが行く。テーマが暗くて重いから、売れ行きには結びつかない。つまり、効率が悪い。アメリカも日本も、このへんの事情は変わらない。ドゥシールも、同僚の文句や上司の圧力と闘いながらの作業だった。

「でも、それをやらないとカメラマンは言われてシャッターを押すだけの写真屋になってしまう。僕の上司はチャンスをくれた。僕も部下に同じことをしたい」  

現在は「ワシントン・ポスト」紙の写真部デスクとして三十六人のカメラマンを率いるドゥシールはそう言う。ホワイトハウスや連邦議会など、米国でもっとも多忙な取材対象を抱える職場である。深い長期取材に誰かを専従させるには、結局スタッフと予算を増やすしかない、と彼は結論づける。

「私が新聞社のカメラマンだったら、あの取材は不可能だった」  

ケニアのマサイ族の女性に残る割礼の儀式を写真ルポし、最年少の二十一歳でピューリッツッア賞を受賞したステファニー・ウェルシュ(24)もそう話す。  

当時、ウェルシュは大学でフォトジャーナリズムを専攻する三年生だった。ある日、大学の掲示板にあったケニアの新聞社でのインターンシップ募集の張り紙が目に止まる。米国の大学には、半年から一年学校を離れて実社会を経験すると、単位に認める制度がある。それがインターンシップだ。  

新聞社からの月収百ドルと親の仕送りでナイロビにアパートを借りたウェルシュは、灼熱の砂漠に住むマサイ族の村に九カ月通った。  

成人に達した女性の性器の一部を麻酔なしで切り取ってしまう儀式が割礼だ。本来は、親族しか立ち会えない秘密儀式である。マサイ語を習い、村のリーダーの許可を得ても、最後はカメラを拒む親族にもみくちゃにされながらの撮影だった。この写真は、全米で十数紙に掲載された。  

受賞後、大学を卒業したウェルシュは、フロリダ州の地方紙「パーム・ビーチ・ポスト」の社員カメラマンになった。  

ピューリッツア賞という華々しい経歴を持ちながら、部数二十万部の地方紙に就職したのはなぜか。

「『ポスト』はカメラマンにはベストの新聞です。写真記事に六ページを使ったり、六週間かけて写真ルポをやらせてくれたりするんですから」

就職後も、彼女は二カ月の休暇を取ってケニアに戻り、売春問題の写真ルポを発表している。日本の企業ジャーナリズムでは考えにくい融通無碍さである。  

フォト・ジャーナリズムの最高峰であるピューリッツア賞を受賞した日本人は三人いる。が、六八年を最後に三十年も受賞者が絶えている。もちろん、ピューリッツア賞はその前年にアメリカの活字メディアに掲載された作品が審査対象だから、最初からアメリカ人中心の賞だともいえる。が、それだけだろうか。  

日本写真家協会会長であり、「トットちゃんが出会った子どもたち」「ぼくたち地球っこ」などの作品を多数発表してきた田沼武能68は、日本の編集者から「哲学」が消え、ビジネスの判断だけが幅を利かせているのではないか、と懸念する。

「社会問題は暗い。重い。売れない。売れないモノにはカネを出さない。一方、芸能人ものとか、つまらない内容でも人気があればカネを出す。そうして低きに流れているのが日本の現状ではないか」  

もうひとつ、こんな話がある。六八年にベトナム戦争の写真でピューリッツア賞を取った酒井淑夫58は、昨年会ったある三十歳代のカメラマンの逸話を話した。なぜ紛争地で取材するのか、との問いに、そのカメラマンは答えた。

「それは、男のロマンですよ」

 理解のできない意識の変化がジャーナリスト側にも起きている。ベトナムの戦火で死に、苦しんだ人々を忘れられず、今も心を痛める酒井にはそう思えるのだ。

(AERA 98.3.9)





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