老人ホームでも音楽療法は使われる。



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音楽療法の現場から
音楽を聴くと心が落ちつく。高揚する。誰でもふだん経験することだ。その働きを医学・心理学的に解明し、治療に応用するメソッドがある。

 

 これは、難しいな。その十四歳の少女が入院してきたとき、音楽療法士の松井晴美さん34はそう思った。  

なにしろ布団をかぶったままベッドから出てこない。病名を診断するのに必要な心理検査はおろか、身体検査もすべて拒否してしまう。これでは、病名も治療方法も分からない。  

回復のきっかけを作ったのは、病棟に置いてあったピアノだった。ある日ピアノを見た彼女が、弾いてほしい、と言い出したのだ。  

松井さんが弾いて聞かせる。顔を上げずにじっと耳を傾けている。リチャード・クレイダーマンの「渚のアデリーヌ」や坂本龍一の「戦場のメリークリスマス」といったメロディの美しい曲を好むことが分かった。そのうちに自分で弾くようになり、最後はピアノに合わせて歌うようになった。

 心を開き始めた少女は、松井さんや治療者に自分のことを語り始めた。映画が好きなこと。マリリン・モンローを尊敬していること。  

やがて快方に向かった少女は、約二カ月で退院。その後、無事高校に進学した。

「音楽は、言葉や理性の壁をひょいと越え、ダイレクトに情動に働きかけるのです」  

松井さんはそう言う。

「音楽が、言葉ではできなかった彼女のコミュニケーションの回路を開いたんですね」

 この少女は「神経症」の一種「強迫神経症」だった。成長する過程で、家族との人間関係から、ある感情が意識の下に抑圧される。成長したあとになって、それが様々な症状となって噴き出す。それが「神経症」だ。

 心理学的に原因が解明されている。後遺症を残さず治癒できる。神経症は「精神病」とは区別されている。  

神経症の治療では、抑圧された感情を意識の上にあげることが重要になる。この少女の場合は、音楽がその役割を果たしたわけだ。  

歌う。聴く。弾く。「音楽療法」は、心の病を音楽で治療するメソッドだ。絵を描く、粘土をこねるなどの「芸術療法」の一ジャンルである。

楽器を弾くといっても、太鼓やタンバリンを打ち鳴らすだけでもいい。手拍子でもいい。鼻歌でもいい。聴くだけもいい。言葉がいらないから、知性の働きや、発声機能にハンディがある人でも治療に問題がない。  

知的遅滞や身体障害。慢性期の精神病や、老人性痴呆。そんな症状を持つ人に盛んに使われる。  

松井さんに伴われ、東京・足立区の特別養護老人ホーム「友愛の里」を尋ねた時の話だ。  

八十歳から九十歳代。お年寄りが四十人ほどホールに座っている。軽度から中度の痴呆症状が出ている人ばかりだ。その前で、松井さんが電子ピアノを弾き始めた。

「とーもしーび ちーかくー きーぬぬう 母はー」  

「冬の夜」である。眠っているのか起きているのか分からないおばあさん。表情が凍り付いたままのおじいさん。が,音楽が始まるや反応した。首をこっくりこっくり、リズムを取る。手拍子を打つ。最後は声を上げて歌い始めた。  

マラカスやダンバリンを渡して「会津磐梯山」を弾いてみる。ドンチャンとリズムが合う。さきほどまで無表情だったおじいさんが、満足そうにカカカと笑った。  

「東京行進曲」を歌う。いやあ、懐かしいねえ。わたしゃ浅草育ちでね、暮れになると夜逃げする家が出たりしたもんだよ。わたしんちは米屋でね、年末はよくツケの踏み倒しがあってねえ。記憶が蘇ったのか、思い出談義が始まっている。

「自分の家族を忘れているのに、昔の歌は思い出すんですね。脳の眠っていた領域が起き出すのでしょう。会話が増えて生き生きしてくる」  

やはり老人を対象に音楽療法を行う村井靖児・国立音大教授62はそう言う。慶応大で医学を学び、さらに東京芸大でピアノを学んだ日本の音楽療法の草分けの一人だ。

「もう、ほとんどカラオケ屋さんですね」  

村井教授は、そう言って笑いながら電話帳のような「歌謡曲千集」という本を取り出した。治療に使う「ネタ本」である。明治、大正時代の唱歌。童謡。民謡。昔親しんだ曲のレベルのほうが、お年寄りは乗ってくるそうだ。  

では、音楽が人間の精神に良い影響を与える、という合理的な証拠はあるのか。答えはイエスだ。  

心療内科の開業医である牧野真理子さん44は、大学病院の勤務医だった十年ほど前から患者五百人ほどのデータを取り続けている。筋電位、皮膚温度、脳波に血圧、脈拍など。その結果を見ると、音楽を聴くと皮膚温度は上昇し、筋電位は下がる。脈拍や血圧は安定する。どれも、心がリラックスしたことを示すデータだ。

「ポジティブな効果があることは間違いない。患者さん本人の自覚とは別に、体はちゃんと反応するんです」  

牧野さんはいま、音楽療法を摂食障害(過食症・拒食症)の治療に使って効果を上げている。  

では、どんな音楽が治療効果が高いのか。  

答えは意外に簡単。「患者が好きな音楽」である。  

牧野さんが治療を担当した三十五歳のうつ状態の男性の例を挙げる。抑うつ、気力の低下、肩こりや睡眠障害などに苦しみ、二カ月入院。その間、週に三回ずつ好きな音楽を選んで聴いてもらい、前述のデータを取ってみた。  

最初の十七日前後はオフコースだった。このバンドは沈痛な失恋の歌が多い。それが山口百恵に変わったあたりから快方に向かい、リチャード・クレイダーマンから矢沢永吉になった二十六日目には、症状がすっかり軽減したのだ。

「落ち込んでいる時は明るい音楽は受け入れがたい。暗い曲の方が良いこともある」(牧野さん)  

音楽療法が臨床心理学や医学の領域で確立したのは、一九五〇年代のアメリカである。六十年代、日本に音楽療法の専門家は二十人もいなかった。医師が治療に音楽を使うことそのものへの偏見も強かった、という。  

が、ここ十年ほどで様子は一変。いま、国立音大のゼミだけで四十人が学ぶ。昨年三月には、学界認定の資格「音楽療法士」制度が始まり、一期生百人が誕生した。  

背景には、治療の現場にストレスのコントロールや、リラクゼーションという考えが導入されたことがある。例えば、末期ガン患者のターミナル・ケア。外科手術や歯科治療の前の緊張をほぐす。そんな分野にも進出している。  

こうした広がりを背景に、医学や心理学からばかりでなく、音楽家からも音楽療法にアプローチする人が出てきた。  

その一人、水島一江34さんは、カルフォルニア大学でコンピュータ音楽を学んだ現代音楽家だ。  

水島さんの「楽器」は独特だ。自宅一階の五十畳をぶち抜き、そこに三メートルから十六メートルの絹糸を張る。糸には、紙コップの共鳴胴が着いている。この糸をこすったり弾いたりすると、オーボエのようなバイオリンのような、不思議な音が鳴るのだ。もちろん、きちんと十二音階がついている。水島さんは「アジアの純真」を弾いてみせた。  

この演奏を、セラピストの柳沼麻木さん37が見た。柳沼さんは、職場である東大病院の小児科に水島さんを招いた。そこには、神経や心臓の病気で、生まれて十六年間一度もベッドから起きあがったことがない子供や、末期がんの子供が暮らしている。  

なにしろ、糸と紙コップの「楽器」である。病院の会議室にセットしてみると、お尻や肘でこするだけでも音階が出る。体が不自由でも演奏者になれる。自己表現ができる。簡単な合奏もできた。

「子供の表情が晴れ晴れとするのが分かった。感情が解放されたんですね」(柳沼さん)  

ただし、音楽療法だけで病気が完治する、ということはまずない。言葉による心理療法や投薬と組み合わせて使う。  

さらに、日本の保険診療制度では音楽療法に医療保険は効かない。いわゆる「自由診療」なので、患者が払う診療費は割高だ。  当然だが、音楽療法も万能ではないのだ。

(AERA 98.3.2)





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