![]() 「村八分」を再結成、活動再開を本格的に目指していたチャー坊。あまりに惜しい |
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チャー坊 「村八分」のボーカリスト・チャー坊は日本ロック界が生んだ最高の詩人だった。が、ドラッグはその才能と引き替えに彼の命を奪っていった。94年4月他界。43歳だった。 |
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「チャー坊」こと柴田和志43が京都市のアパートで死んだのは、今年四月二十五日である。 朝八時半、ガールフレンドが目を覚ました時には、彼はコタツの中ですでに冷たくなっていた。解剖の結果、致死量の覚醒剤とモルヒネが血液から検出された。 「世界中のドラッグは一つだけ残して全部やった」 そう豪語した彼らしい最期だった。 チャー坊は「村八分」というバンドのボーカリストだった。七〇年ごろ京都で活動を始めたこのグループは、日本のロックの黎明期に「頭脳警察」のパンタ、「はっぴいえんど」の細野晴臣らと並んで、日本語で歌うロックを興したバンドとしてその名を残している。やたらと横文字が並ぶ日本語ロックの中で、彼はどこか血生臭さが漂う独自の「ひらがなロック」の世界を作り上げていた。 「きいろい きいろい/河の底から生まれでた馬の骨/もまれてふまれて もまれて馬の骨 骨の土」(『馬の骨』) 二年ほど前、チャー坊と一緒に昼食に中華料理を食べたことがある。 真っ昼間、長髪にサングラス、黒い革の上下に、なぜか足元はサンダルという格好で彼はやって来た。ブタの角煮を勧めると「僕は歯が悪いからなあ」と断って、マーボー豆腐をずるずると食った。 ドラッグを使うと曲作りがうまくいくのか尋ねると 「僕は作詞にはすごく凝るからねえ。万葉集にすごく影響されとるんよ」 そんな謎めいたことを言って、またマーボー豆腐を食った。 食事のあと、チャー坊がガールフレンドと暮らすアパートに遊びに行くと、そこは家具といえばコタツくらいしかない寒々とした六畳間だった。なぜか数十万円もするシンセサイザーが鎮座していて、彼はそれを飽きずに弾き続けるのだった。 モーツァルトとベートーベンが好きやねん、とチャー坊は言った。座右の書は世阿弥の「花伝書」だった。 厚さ五センチほどにふくらんだノートをいつも持ち歩いては、思いついた言葉を書き留めていた。ひとつの歌を十年かけて仕上げることもあった。 ドラッグは、創造力の源泉だったらしい。まだLSDが日本で非合法化される前の六〇年代にアメリカへ渡り、LSDをリュックサック一杯の七千錠持ち帰った。そんな逸話が残っている。 七三年に京大西部講堂で村八分のステージを見た音楽評論家の北中正和は、次のように語る。 「突出したバンドだった。チャー坊の歌はあまりにユニークで、真似ができない。日本語で、ポップスでないロックを歌って成功させた最初のバンドだろう」 才能は誰もが認めていたが、ミュージシャンとしてのチャー坊は不遇だった。残っている公式のレコードは七三年に出た一枚だけ。大手レコード会社がドラッグ好きのメンバーや危険な歌詞に二の足を踏んだからだ。 「クスリの歌ばっかり歌ってたらメジャー会社はダメかなあ。やっぱり俺は一生アングラかなあ」 チャー坊はそうこぼしていた。 大麻取締法、覚醒剤取締法違反で逮捕歴は三回。薬物依存症治療のため、何回か入退院を繰り返している。 最近は、再起を目指して張り切っていたらしい。九一年にバンドを再開。定期的に京都や東京でコンサートをやり、新曲もアルバム一枚分作り終えていたという。ギターやアンプも買いそろえた矢先の、突然の死だった。 九二年にCD化された村八分の唯一のレコードは、若い世代に愛され、これまでに約二万枚が売れているという。 (AERA 94.11.28号) |
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