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「心の風邪」とつきあう 明るいうつ「病」
一人悩んでいないで、信頼できる人にカムアウトしてみては。最近は良い薬が出ているし、ネットで語れる仲間も増えている。


 

 しばらく会ってないから、久しぶりに集まってメシでも食おうか。メールのやりとりだけじゃ何だし。そんな調子で仲間が居酒屋のテーブルを囲み、杯を傾ける。みんな三十代男だし、自営業だから、お互い気心が知れている。会話が弾む。そんな、ありふれた飲み会での出来事である。


 ○薬の話に花が咲く
 ほどよく酔いが回ってきたころ、ふと一人が言った。


 「そういえば、×××って薬は酒と一緒に飲むと記憶が飛ぶし気をつけんとね」


 別の一人が応える。


 「まあ、あれは涎が出たり泡吹いたりもするしねえ」


 「へえ、それ、何ミリグラム飲んでるの?」


 「それじゃ眠くて起きられなくならない?」


 ドグマチール、ハルシオン、アサシオン……。そんな調子で、三人が薬と病気の話で延々と盛り上がり始めた。が、残る二人は何のことやらさっぱり分からない。そのうち、三人が「うつ」であり、それぞれが使う薬の情報交換をしている、ということが見えてきた。


 五人のうち三人がうつということに、残る二人はまず仰天した。そして、密室でもないテーブルで、大声であけすけに話す有り様にもっと驚いた。隣席から奇異の目で見られるのでは、と気が気ではない。が、三人は気にする様子もない。


 「自分のうつですか?いえ、他人に知られても気になりません」


 うつの一人に取材をお願いしたら、意外にも快諾してくれた。


 建築物の外装デザインの仕事をしている。ライバルとの受注競争、納期、支払い督促。サラリーマンが嫌で自営業を選んだのに、結構ストレスはきつい。数年前、突然眠れなくなった。一日中、何もする気力が起きない。ただひたすら床に横たわっている。請求書を封筒に詰めて投函するのに一週間かかる有り様だった。


 意を決して近所の心療内科へ行くと、診断は「うつ」。自分がもらった薬の中身をインターネットで調べたりするうちにすっかり詳しくなり、同じような症状に苦しむ友人の相談に乗ったり、メールで情報交換するようになった。


 「個人の責任でなったのではなく、うつにも様々な社会的要因があるという情報が行き渡ったということが大きいでしょうか。アトピー性皮膚炎などと同じように」


 「うつ」に対する偏見が薄らいできた?確かにそうかもしれませんね。精神科医・香山リカのカワイイ姿があちこちのマスコミに出たのは精神医療のイメージを変えた。少年犯罪が相次いで、心理学者が登場しては「トラウマ」など学術用語を流通させたことも背景にあるのでは。この自営業者氏は、そんなふうに分析した。


 ○親しい人に打ち明けて
 病気を打ち明けられた側の態度も変わってきた、と別の一人は言う。「がんばって」などと励ますのは禁物、など細かい対処法が知識として広まった、と感じる。


 「これまでは『怠けている』とか『根性が足りない』とか非難されたし、自分を責める人が多かった。周囲はおろか本人も『うつ=病気』という認識が乏しかった」


 メンタルヘルス関係のコンサルティングを約五十社手がける「メンタルヘルス総合研究所」の久保田浩也代表はそう話す。


 不景気のおり、会社が病人を守ってくれるかどうか分からない状況では、勤務先でのカムアウトはまだリスクが高い、と久保田氏は警告する。が、少なくとも「メンタルヘルス」という言葉は普及した。心療内科や相談窓口を社内に設ける企業は珍しくない。


 一方、親しい友人や配偶者に打ち明けるのはとても良いことだ、と久保田氏は言う。


 「大丈夫だ、何でもないよ、とウソを一回つくとウソにウソを重ねてどんどんしんどくなり、治療のタイミングを失う。打ち明けて『お父さんがしんどいなら偉くなれなくてもいいわよ』と奥さんが言ってくれれば、ぐっと楽になる」


 うつはよく「心の風邪」と呼ばれる。誰でもかかる、ありふれた病気であり、罪悪感や孤立感を抱く必要はない。風邪もうつも体が動かなくなるのは同じ。静養が必要だ。薬を飲めば症状は治まる。が、軽視するとこじらせて肺炎になることもある。病気なのだから、遠慮せず心療内科や精神科など専門医にかかればいい。


 「患者」の認識が変わった理由の一つは、ここ数年、効き目が良く、かつ副作用が少ない薬が出てきたことだ。「薬を飲めば治る病気」という安心感が広まったのだ。


 こうした新世代の抗うつ剤を俗に「SSRI系」と言う。火を付けたのは米国で一九八八年にイーライリリー社が発売した「プロザック」である。吐き気、強い不眠、頭痛など、それまでの抗うつ剤につき物だった不快な副作用がほとんどなく、効き目も速い。あっという間に爆発的なブームになり、七年間に世界で千万人が服用、月に九十万人が処方を受ける「新たな常備薬」までに普及した。


 日本でも、約一年前から「デプロメール」「パキシル」などの商品名でSSRI系抗うつ剤数種が市場に出た。医者に行って処方を頼めば手に入る。旧世代の抗うつ剤市場は百五十億円規模だったのにSSRI系はすでに百億円規模と、売り上げは急成長している。


 ○数ある病気のひとつ
 この急成長を背景に、製薬会社はこぞって「うつの啓発」に乗り出している。
 「私はバリバリの『鬱』です」


 そんな意表を突く見出しと共に、タレントの木の実ナナが今年一月末から二月にかけて、全国紙・地方紙四紙に登場した。それも全面ぶち抜き、二ページ。彼女自身のうつ体験や薬で症状の治まることを語り、開発中の新薬の治験への参加を募る内容だった。


 薬事法は処方薬の広告を原則的に禁じている。治験への抵抗感も根強い。あえて広告に踏み切った理由を塩野義製薬の是枝義雄広報室部長は次のように説明する。


 「うつを病気として認識してもらう『啓発活動』とも言えます。患者さんだけでなく、専門医以外の、例えば内科医にも認知してほしかった。胃痛など身体症状を訴えて医者に行く患者さんも多いですから。そうでないと薬を作っても日の目を見ない」


 広告掲載後、治験参加者受け付けの電話を開設したら、二週間に六千件が殺到、回線がパンクした。その大半が「気分が沈んで何もやる気がしない。うつでしょうか」などの「相談」だったそうだ。


 もう一つ環境が大きく変わった点は、インターネット上での情報交換や、患者自身による発信が増えたことだ。同じ病気同士なら、カムアウトを恐れる必要はない。また、孤立している患者にとっては、仲間を作る強力な手段である。「SSRI’SHOMEPAGE」というホームページがある。SSRIについての基礎知識、十種類以上の抗うつ剤服用体験談、日本にない薬の輸入業者の値段・サービスランキングなど、痒いところに手が届く作りになっている。そのせいか、開設して二年半でアクセスは四十万件にも上る。


 ○ネットに投稿四百件
 主宰者にメールで取材を申し込んだところ、こちらも快諾してくれた。会ってみると、医師でも製薬会社の社員でもないという。三十代前半、コンピューター会社に勤める技術系サラリーマン、と名乗った。このHPは、この男性が一人で運営する個人サイトなのだ。


 この男性も、十五年間うつに苦しめられ続けている。医者がくれる抗うつ剤は副作用がひどく、治らないものと諦めかけていた四年前、テレビでプロザックの存在を知った。治したい一心で輸入業者から薬を買い、その体験日記を公開したのが始まりだ。


 「当時は薬に関する情報がほとんどなかった。製薬業者や大学教授の話は一般論ばかりで、うつの人が知りたい生の情報を、服用者の立場から言いたかった。自分が知りたいことはほかの人も知りたいんじゃないかと思ったんです」


 書き込みのできる「掲示板」には一晩に四百件もの投稿があるそうだ。薬や治療に関する情報交換だけでなく、好きな音楽の話、人ごみは苦手だ、など雑談がネット上で親しく展開されていて、仲間のくつろいだ場のような雰囲気が伝わってくる。冒頭の自営業者氏の飲み会に似ているかもしれない。


 管理者氏も、気功から催眠術まで、様々な治療を試しては挫折、その度に絶望感に苦しめられた経験がある。勤務先ではカムアウトしていない。親を含め社会一般では他人事としてしか理解されないと考えている。


 偏見は薄らいできたとはいえ、うつの治療環境にはまだまだ不備が多すぎるのも事実である。


 うつは腰痛や胃痛、月経障害や下痢などの身体症状として現れることもある。内科や産婦人科で検査しても、当然体に異常は見つからない。医師も体に異常が見つからない時点で「大丈夫ですよ」「気のせいですよ」と済ませる。そこでどん詰まりになる。また、うつだと自覚しても何科に行けばいいのか分からない。


 SSRI系の抗うつ剤も、うつを原因から完治させる薬ではない。服用している間は症状は治まるが、止めればまた元に戻る。


 ○潜在患者は千万人
 骨折に例えれば分かりやすいかもしれない。骨が折れれば、当然正常には歩けなくなる。が、専門家に見せてギプスや湿布などの手当てをすれば、後遺症もなく完治する。一方、抗うつ剤は、骨が折れて痛いからと鎮痛剤を飲むだけの状態に似ている。


 心の病気はおよそ(1)神経症(強迫神経症、ヒステリー、神経衰弱など)(2)境界例(3)精神病(精神分裂病など)に分類される。よく混同されるが「うつ」は(1)で「躁鬱病」は(3)だ。(1)(3)の中間が(2)である。


 うつの属する神経症の治療は、薬を使わない臨床心理学、特に精神分析学の得意分野である。心理的な原因が解明されているからだ。


 神経症とはどんな病気か。簡単に言うと、成長する過程で家族との関係からある感情が意識の下に抑圧され、成長した後になって様々な症状となって噴き出す現象だ。病気だと自覚することができる。脳や神経など「体」に原因がなく、後遺症を残さずに完治できる。


 ところが、日本では臨床心理治療者の数が非常に少ない。明治以来、日本の医学部の精神医療では、心の病気を神経や脳など「体」からアプローチする治療に重点を置いてきたからだ。こちらの中心は投薬であり精神病には強いが、神経症治療は不得手だ。


 米国では一九五一年、欧州でも七〇年代には臨床心理治療者の資格が整備され、医師と対等の治療者として活躍しているが、日本で「臨床心理士」の資格ができたのは八八年。それも、大学卒業後十二年間の過酷なトレーニングを受ける米国に比べると、訓練時間ははるかに及ばない。米国なみの訓練を積んだ分析家は「日本精神分析協会」の正・準会員くらいしかいない。その数、全国にわずか三十五人である。


 風邪を治す医師はたくさんいるのに、心の風邪を治す態勢は、誠にお寒い状態だ。だが、うつの患者は潜在的な層も含めれば千万人という説もある。明日あなたがそうなってもおかしくない。他人事ではないのだ。

(アエラ 2000年12月18日)