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[シリーズ医療構造危機 7] 診療室に学者はいらない 「もっと診察や治療に強い医者を」現場から繰り返し上がってきた声だ。医療構造が激変する中で、医学教育は旧態依然のままでいいのか。 |
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七時半になって、病棟の窓に朝日が差し始めた。今日の業務が始まるまで、あと一時間半。まだ静かな病院の中で、救急処置室から英語のやり取りが聞こえる。 アメリカ人医師のビッケン・トッテンさんは、昨夜脳内出血で運び込まれた六十八歳の女性の傍らに立っている。彼女の脈を取りながら、横に立つ若い四人の研修医に、次々に質問を飛ばしていく。 「足にむくみは? むくみがあれば静脈に血栓が起きている証拠です。骨髄液の採取は済みましたか? お年寄りの場合は背中を丸めて座らせればより簡単ですよ」
日本人研修医は、患者の病状や検査データを英語で説明していく。また質問が飛ぶ。議論になる。ベッドの傍らで、CT写真の前で、トッテンさんの「授業」は約一時間半続いた。傍らの医師がつぶやいた。 米国にいるのではない。那覇市から車を一時間走らせ、沖縄県立中部病院に来た。大学医学部に頼らず、米国人医師を講師に招いての独自の研修プログラムを一九六七年から続けてきた、全国でも珍しい病院だ。トッテンさんは、ニューヨーク市の病院で救急部門の調査部長を務める救急医療の専門家だ。十二月二日から一週間滞在し、病室での実習やスライドを使った講義を担当する。 トッテンさんのような短期の講師が年に十五人。約三カ月を過ごす長期が年四人。産婦人科、小児科、放射線科。学者や研究医ではなく、臨床医療の専門家ばかりである。「生徒」は六十五人いる。医学部卒業後一年から四年の若い医師だ。入院や外来患者を担当しながらの研修なので「授業」は早朝と夜になる。二年間、病院内の薄暗い二人部屋で寝起きしながらの激務だが、志願者は後を絶たない。 「試験の倍率が、二・五から三・五倍。同窓生は全国八十大学のうち約五十大学を網羅しています」 真栄城優夫院長(六三)はそう話す。 もともとはやむなく始めた研修制度だった。沖縄は戦禍で医師が激減したうえ、八一年まで医学部がなかったからだ。それが今では、大学医局での研修に飽き足らない臨床志向の医師を全国から引き付ける名物病院になった。 大学医学部を中心にした教育は、臨床に強い医師を育てる機能が弱い。裏返せば、そういうことになる。何が問題なのか。 その一。医学部には診療の教育に専念できるスタッフがほとんどいない。以下は、休暇を利用して米国のアイオワ州立大学医学部付属病院を見学した京都大学医学部出身の内科医(二六)の話だ。 驚いたことに、見学先の内科には、教授だけでも七、八人、助教授や講師などを含めた「スタッフ」は三十人以上もいた。しかも、そのうち何人かは、病院の仕事から解放されて学生や研修医の教育に専念する「オフ・デューティ」。この陣容で約二十人の研修医の面倒を見る。人ぐりに余裕があるから、研修医が症例をスタッフに報告し、指導を受ける「カンファレンス」が毎日あった。 日本ではこうはいかなかった。出身の医局には、教授から助手までのスタッフはたったの九人。当然、教育専従に人を割く余裕はない。さらに、誰もが自分の研究で忙しく、質問したくてもなかなかつかまらない。カンファレンスは週に一回しかなかった。 「大学医学部では、研究が第一の仕事、となっている。スタッフ一人ひとりが優秀でも、大学の体制が教育には適していない」 内科医氏は、そう指摘する。 問題点その二。医学部では専門分化が極端に進み「タコ壺化」している。 「一に論文、二に論文。三、四がなくて五に臨床」(研究偏重・臨床軽視。教育は眼中にない)そんなジョークを披露するのは、京大医学部の福井次矢教授だ。昨年十月に新設された「総合診療部」を率いる。この部は、特に研究重視で知られる京大医学部では、まさに驚天動地の存在だ。なぜか。 (1)福井教授は、病院勤務医を経てハーバード大学などで学んだ臨床医療の専門家。どこの医局にも属していない (2)教室に実験室がない。 「総合診療部」が対象にするのは、例えば次のような患者だ。病気が複数の臓器にまたがる。心理的な原因で臓器に変調が起きている。つまり複数の診療科にまたがる病気でも診察できる機能を持つのだ。福井教授の言葉を借りれば「臓器による選択をしない」。旧来の診療科で、臓器別・縦割りの専門分化が進みすぎたことへの反省も背景にある。 「内科でも心臓だけ、それも冠状動脈だけが専門、とかいう医師が大学には実に多い。そのうち『右耳の専門医』と『左耳の専門医』が分かれるぞ、という冗談まで出ているんですよ」 そう言う福井教授によると、総合診療部が開設された目的の半分以上は教育なのだそうだ。総合診療部の診察室には、天井からビデオカメラがぶら下がっている。研修医が患者に病状などを聞く問診の様子を収録し、指導するためだ。ここでは「促し」「解釈」「沈黙」「表情観察」「雑談」など、コミュニケーション学に基づいた分析が行われる。 「問診は診療のもっとも重要な要素なのに、医学部ではほとんど顧みられなかった。患者の立場から医療の質を向上することに焦点を合わせたセクションはなかった」 福井教授はそう指摘する。現在、総合診療部にあたるセクションを持つ大学は全国八十のうちまだ十一。欧米では二十年前に常識化したことが、日本ではようやく始まったばかりだ。 「まるで、シナリオ作家みたいでしょう」
医学教育が専門の藤崎和彦・奈良県立医大助手はそう言って水色のファイルを見せてくれた。 藤崎さんは次のように解説する。高齢化が進んで、病気の主流が急性疾病から慢性疾病へと変わった。治療も短期入院型から長期外来型に変わり、医師と患者の人間関係が以前より重要になった。 「患者の人権意識は高くなった。それなのに、インフォームド・コンセントひとつとっても、大学では何も教えてくれない」 オーソドックスな日本の医学教育は、大ざっぱに言えばこんな具合だった。まず医学部での「卒前教育」。一、二年生は教養課程。専門課程に進むと三、四年生で解剖学、生理学や病理学などの「基礎系科目」の講義。五、六年生で「臨床系科目」と病院での臨床実習。国家試験合格後は大学病院などでの「卒後研修」が続く。何人かの医師に聞くと、解剖学や病理学の授業は「先週は脳、今週は心臓と、まるで地理の勉強みたい」なのだそうだ。科目が変わるごとに、人体を一周。同じ臓器が繰り返し出てくる。 「つまり、患者を診るための知識が、科目ごとに断片化されている。患者を前にしたとき、医学部で習った知識を頭の中でもう一度組み替えないといけない」 福井・京大教授はそう言う。 こんな旧来の医学部教育に反旗を翻す大学も現れ始めた。例えば、東京女子医大。九〇年から講義形式の授業を三分の一削って「チュートリアル方式」に置き換えた。 その内容はこうだ。学生六、七人のグループに、具体的な患者の例がプリントで与えられる。例えば「裕太君は五歳の男の子。発熱が二日続き、お腹も痛がっている」というふうに。次のプリントはこの患者の検査データや入院後の経過。レントゲン写真も用意される。こうして患者から遡って、膀胱や尿路の形や機能(解剖学)、尿路感染症の病因や症候(病理学)、子供の感染症の特徴などを学んでいく。患者が老人なら、同居家族との精神的なストレスや、住宅問題にまで言及することもある。学生が図書館などで調べて発表しながら勉強するのも特徴のひとつ。米国のビジネススクールのケーススタディーに似ている。カナダのマクマスター大学から輸入したメソッドだからだ。 同医大の東間紘教授は、カリキュラムを転換した背景を次のように説明する。 (1)医学知識が増え過ぎた(2)医師過剰時代。女性医師が真っ先に不利な扱いを受ける恐れがある。臨床に強いことは強みになる、という計算だ。 「私の学生時代は、DNAが発見されてようやく教科書に載ったころ。免疫学とか分子生物学に至っては分野そのものがほとんどなかった。医学生が勉強すべき量は数十倍に膨れている。すべてを網羅するのは不可能。それなら知識より『学び方』を教えた方がいい」 八五年に準備を始めたとき、強く抵抗したのは教授陣だった、と東間教授は振り返る。 「授業時間を削られたりカリキュラムをいじられたりすることで権威を失いたくない、と思ったのでしょう」 冒頭の沖縄県立中部病院の「卒業生」たちの悩みは、就職先の病院が見つかりにくいことと、入っても部長・医長レベルまでなかなか上がれないことだ。 こうした病院で学ぶ医師は、大学医局の人事ラインから離れなければならない。主要な病院は、医局の「関連病院」として大学教授が医師の人事権を握っているので、医局から脱退すると就職先は狭められる。だから、大学医学部の教育を改革しようとする動きは、まだ少数派にすぎない。
(AERA 95.12.18) |
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