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[シリーズ医療構造危機 5]
医局は医師の牢獄か
「医局」は不思議な集団だ。博士号の謝礼が五十万円。突然の首切り。そんな不可解な慣習の組織が医者の人生を左右する。


お前はクビだ。さっさと出ていけ。教授はそう言っているな。それはすぐに分かった。

ある国立大学医学部の教授室で、二人の男が向かい合っている。一人は部屋の主である教授。片や、その下で十年働いた助手(三五)。少し前、ちょっと話があるから、と教授室に呼び出された。教授はこう切り出した。

「留学生が夢を持って帰ってくるんだ。席を空けてくれないか」
そしてこう付け加えた。
「××君も、もうすぐ留学から帰ってくるからねえ」

その名前を聞いて、彼はすべてを理解した。それは彼より三年後輩の医局員の名前だった。助手は、この十年間に三回も教授の命ずるまま地方都市の病院勤務を引き受けた。ところが、何人かの後輩は地方勤務をすることもなく、教授の推薦で海外の大学や研究機関へ二、三年留学していく。自分はそんな教授の「お気に入り」ではないらしい、と感じていた。

彼の医局には教授一人の下に助教授一人、講師が二人と助手が五人いる。留学から帰った医局員は、助手に就くのが普通だ。留学帰りの医局員のために席を空けろ、と教授は言っているのだ。地方都市の病院を挙げて、就職するなら推薦状を書くがどうだ、と教授は言った。が、自分が研究者志望であることも、大学近くにマイホームを買ったことも教授は知っているはず。最初から受けるはずのない提案だった。

結局、任期が半年残っていたのに、大学をクビにされた。国立大学の助手といえば常勤の国家公務員なのに、教授の一存で失業。異議を申し立てる場所もない。
「苦労して医学部に入り、夢を持って努力してきた。なのに、こんなふうに可能性の芽を摘まれるなんて、あまりにくやしい」

彼はいま、ある研究機関で一研究生として再出発を目指している。家のローンや家族との生活費のため、民間病院で宿直のアルバイトを重ねている。

医学部教授が医局内の医師に行使できる権力には、二種類ある。一つは、前述の助手の例のような人事権。もう一つは、博士号という学位を授与する権限だ。

医局とは何か。簡単に言うと、医学部教授が率いる大学の「講座」「教室」(大学病院では「診療科」)に「関連病院」と開業医を加えた医師の集団である。法規や規則に基づく組織ではない。

「日本の医師の約八割は、何らかの形で医局に入っている」(中川米造・大阪国際女子大学教授)

医師のキャリアは、例えばこうだ。医学部を卒業して国家試験に合格した時点で、どこの医局に入るかを決める。そこの大学出身者でなくてもいいから、自分の専門に強い医局や、出身地にある大学の医局を選ぶことが多い。医局に入ると年功序列の「医局人事」が待っている。まず大学病院での研修が一〜二年。続いて「関連病院」へ出る。二、三年ずつ二、三カ所の病院と大学を往復する。十〜十五年経つと、出先の病院の「医長」クラスになる。後は、そのまま病院に就職する、大学へ戻って教授を目指す、開業する、などに分かれる。

「関連病院」とは何か。手元に「第二内科年報」という冊子がある。人事異動、医局員の名簿、学会発表や論文など、東大第二内科の九四年度の活動をまとめた医局の年次報告書だ。これによると、医局員は百四十三人。九五年六月現在、東大第二内科の「関連病院」は、東京警察病院、日赤医療センターなど全国に二十カ所ある。つまり、医局が医師を送り込む指定席を持つ病院のことだ。

その中には、市立など公立病院がまじる。そこへ出向すると、医師の身分は地方公務員になる。が、その自治体に医師の人事権は事実上ない。出身医局の教授が決める。つまり、医局員がどの病院に異動するか決める権限は実質上教授一人が握っているのだ。

病院側にすれば、医局は医師の供給源。医局にすれば、関連病院は訓練場所であると同時に珍しい症例を拾う情報網にもなる。医局の規模やポストの数はまちまちだ。小さいところでは十五人前後の医局から、大きい医局では百五十人前後のところもある。国公立大学では教授・助教授一人ずつだが、私立だと教授だけで三人いる医局もある。大きな医局だと、教授はヒラの医局員まで目が届かず、人事など実務は助手や講師レベルの「医局長」や「グループ長」が仕切ることもある。

大きくても中小企業なみの組織だから、ヘッドである教授の性格によって、医局の雰囲気は変わる。同じ大学でも医局が違えば交流はない。途中で別の医局に移ることも事実上不可能だ。

「医局に入ることを『草鞋を脱ぐ』と言うように、ヤクザの組に似ています。入れば一生面倒を見てもらえる代わりに、辞めたくても足抜けできない」

阪大や滋賀医大で教授の経験がある中川氏はそう説明する。サラリーマンの人生が就職する会社で決まるように、医師の人生も所属する医局で決まる。冒頭の助手はその悲惨な例だ。

医局員が教授にカネを贈る不可解な慣習もある。「論文審査料」と「仲人料」だ。取材した範囲では、公立・私立や都市部・地方を問わず、どこの医局にも判で押したように同じ慣習があった。

論文審査料は、医局員が博士論文を教授に審査してもらう際、数十万円の謝礼を払う習慣だ。

例えばある県立大学の医局出身の産婦人科医(三七)は、博士号を取った際の審査教官のうち、一人の「主査」に五十万円、二人の「副査」に十万円ずつを贈った。この「主査」は所属する医局の教授。論文のテーマそのものも教授の下の助手が決めたもので、教授の専門テーマの一分野だった。教授は事前に「てにをは」まで直すほど読んでいたので「審査」といっても落ちるはずがなかった。謝礼の存在は友人に聞いて知っていたので、先輩に金額の相場を教えてもらった。合格後、教授室を訪ねて「御礼」と書いたのし袋に入れた五十万円を差し出すと、教授はそれが何か尋ねることもなく受け取った。

「仲人料」は、医局員が結婚する際に仲人役の教授に贈るカネ。不思議なことに、全国どこで聞いても相場は五十万円だ。ある私立医科大学の内科医は、結婚式の直前に、婚約者とそれぞれの両親を連れて教授の家に挨拶に行った際、五十万円を渡した。金額は、やはり先輩に聞いて決めたそうだ。この内科医は言う。

「ウチの教授は良心的な方でしょう。慶応大学では二百万円という噂ですよ」

他にも、某大学の有名教授は百万円だ、京大より阪大の方が高いなど、噂にはこと欠かない。教授以外の人物に仲人を頼めばいいのにと尋ねると、取材相手は申し合わせたように同じ返事をした。「医局にいて教授に仲人を頼まないという選択はないんです」

日本の組織の例に漏れず、医局は余暇行事も盛りだくさんだ。主な年中行事は「同門会」「医局旅行」「忘年会」である。

「同門会」は、医局員全員が集まる同窓会だ。京大のある医局の場合、バブル期は高級ホテルを使っていたが、近年は大学の付属会館が会場。冒頭、スライドでの症例報告や質疑応答がある。が、会場は飲食物を手に談笑している。「研究会」という体裁にして、製薬会社の資金援助を受けるのだ。忘年会は、東京圏なら神奈川、山梨など近県の温泉に一泊、という例が多い。ある私立医大の消化器内科の忘年会は荒れることで有名。襖を破く、畳に醤油を撒き散らすなど弁償額が四十万円にもなり、ついに「内視鏡研究会」という「偽名」を使わないと旅館が会場を貸さなくなってしまった、という逸話まである。

「医局を辞めて本当に良かった。医局にいた八年間を思い出すと腹が立つ。早く忘れたい」

そう言う心臓外科医(三五)は、医局での体験を次のように話す。八五年にある国立大学を卒業、心臓外科では日本でも有数、と評判の東京の大学の医局に入った。が、そこでの扱いはまるで「将棋の駒」のようだった。回ってくる仕事といえば採血とかレントゲン検査とかばかり。「医療行為は何もやれない」状態が続いた。学会の準備などの雑用や、教授の論文の下請けのような研究も、次々に上から降ってきた。肝心の手術は、いつまで経っても補助作業ばかり。

「八年経った後も、野球で言えばキャッチボールも満足にできない状態。まして試合になんか出られるわけがない」

かといって医局外で勉強しようにも、許されない。ある心臓外科の大家の手術を見学したときは、身分を隠してこっそり申し込んだ。それでも上司にばれ「何を見てきたんだ」と問い詰められた。結局、出向した民間の関連病院の方が多くを学べる、と九三年六月に「退室願」を提出。が「預かり」となった。その後も九四年暮れまで月三千円の医局費の催促が来たり、医局長から慰留の電話がかかって辟易した、という。

「他の大多数の医局員は医局ですくすくと育っている。記者さん、ドロップアウトした少数派の言うことを信じてはいけません」

この外科医のかつての上司にあたる教授を訪ねると、そんな言葉が返ってきた。

特に若い医局員に自由がないのは、多かれ少なかれどの医局にも共通している。東大のある若手医局員は、関連病院への出向を直前になって取り消されたことがある。理由を上司にたずねると、こんな答えが返ってきた。

「医局の人事に『なぜ』を聞いてはいけない。黙って従えばそれでいい」

医師の研鑽の場どころか、心臓外科について言えば医局制度は医療のレベルを下げているのではないか。そう指摘するのは、心臓外科医の南淵明宏さん(三七)だ。その趣旨はこうだ。

医局制度の下では、執刀医として人工心肺を使うような本格的な心臓手術(開心術)を経験するのは、関連病院の「部長」クラスになってから。卒業後十五年近く経っている。これは欧米に比べ五〜十年遅い。しかも症例数が少ない。年間百例の心臓手術を扱う病院は、日本では希だ。大学病院では教授しか執刀医にならないのが慣習だから、下の医局員に回ってくる手術数は皆無に近い。南淵さんも、ある県立医大を卒業後、医局に入って二年間国立病院に籍を置いた。が、幻滅して医局を脱退。八九年にオーストラリアの病院に応募して研修医になった。二年半の間に千例の手術に立ち会い、十例を執刀。さらにシンガポールの国立大学病院で一年。九二年七月に帰国、民間病院に就職して年に二百例前後を執刀している。

が、南淵さんのように、医局に属さず自分の腕一つで渡っていく医師は、まだ例外的な少数派だ。南淵さんは言う。

「医局の中では手術の経験が積めない。これは医師個人の資質の問題ではなく、体制の問題です」

東京女子医大の小柳仁教授は、医師の周辺スタッフが不足しているために、医師が治療行為に集中できない、と指摘する。例えば、二十四時間態勢で待機できる検査技師やヘルパーを雇う予算がないから、手術後のデータ管理などを医師がやらなくてはいけない。そのしわ寄せが特に若い医師の負担になっている、という。

小説『白い巨塔』のような封建的な医局は昔話ですよ。ある医学部関係者はそう言った。しかし、医局の体質は本質的には何も変わっていない。取材をしてみると、そうとしか思えないのだ。

(AERA 95.11.13)





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