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■日本にはSLAPP訴訟を防ぐ法的手段がない ■ 民事訴訟を脅迫や恫喝に悪用できる法の抜け穴がある
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前項に続いて、私が33ヶ月間オリコン裁判を経験することで初めて見えてきた「日本の裁判制度の限界」を報告します。
小池恒オリコン社長がプレスリリースで自らそう宣言しています。訴訟を目的以外に使う「濫訴」を当事者がこうも堂々と宣言してる例は、文献を当たってみてもなかなか見当たりません。世界でも珍しい、堂々たるSLAPPケースといえるでしょう。
答えを先に言ってしまえば、それは日本の現在の法律と裁判制度では「不可能」だということがわかりました。死に物狂いで高裁でも主張し、弁護士ともさんざん「打つ手はないのか」と打開策を探したのですが「ここから先は法律を変えない限り無理だ」という「行き止まり」に何度もぶつかった。
思いつくままに並べてみましょう。
1)いかにムチャクチャな内容の訴えでも、提訴を防ぐことはできない。 これは本当にびっくりしました。オリコンのような訴訟を目的外に使うことを「訴訟権の濫用」または「濫訴」といいます。こう書くとまるで違法行為のようですが、民法にも民事訴訟法にも、濫訴が違法だという条文は一文字もありません。
私は自分の弁護団(一審・二審合わせて7人)と綿密に作戦を打ち合わせたつもりですが、どの弁護士に聞いても判で押したように「提訴そのものを不法行為として損害賠償を請求しても、裁判官が認めることは極めて稀」と同じ結論が返ってきました。これはセカンド・オピニオンを他の弁護士に求めても同じ答えでしたから、確度の高い話として信じるしかないでしょう。 濫訴を主張して勝った武富士裁判の例があるじゃないか、と思われるでしょう。しかし、弁護士たちに聞くと「あれは原告の武井(武富士)会長が逮捕されるような事態になって転がり出てきた例外中の例外」とのことでした。 いかに破綻した内容の提訴でも、裁判を起こす権利は保障する。おかしな訴えは裁判所が審理して退ける。それで淘汰されるから、それでいいのだ。これが民事裁判の建前です。 (その前提には憲法が保障する『裁判を受ける権利』があります。最後に詳しく解説します。これがもう時代遅れになって、現実に矛盾どころか逆行していることも後で詳しく述べます)。 しかし、もうお気付きのように、その破綻した訴えを裁判所が受理して、審理を始めた時点で、訴えられた側(被告)には弁護士費用などの膨大な裁判コストがオンされます。 次に述べるように、SLAPP訴訟は批判者や反対者に裁判コストを負わせて苦しめ、公的な意見表明を妨害するのが目的なのですから、裁判所が受理してしまった時点でSLAPPは目的が達成されてしまいます。それを次に述べましょう。
2)弁護士費用、裁判準備の時間など法廷外で発生するコストを裁判所は一切考慮しない。裁判所の判断には一切反映されない。 よく「訴訟費用は原告の負担とする」という判決文の一節がありますね。あれをまた聞きで知って「弁護士費用も相手が持ってくれるんだってね。よかったね」と勘違いの「祝辞」を述べてくれる人がいます。
それが民事訴訟の建前だから(だそう)です。 裁判所がいう「訴訟費用」とは「裁判所のショバ代」つまり「施設使用料」のことです。法曹業界言葉では「印紙代」といいます。請求金額に合わせたショバ代を裁判所に納め、それを払った証明として収入印紙を訴状に添えるからです。 オリコン裁判ですと請求金額が5000万円に対してショバ代は17万3000円でした。オリコンは提訴の段階で裁判所に17万3000円払っています。ちなみに、他の訴訟を取材してみると、請求額2億円の損害賠償訴訟で60万円でした。
弁護士費用だけではありません。裁判で犠牲になるもっと大きな裁判コストは「時間」です。 私のような小規模自営業者にとって、裁判準備のために時間を奪われることは、収入が減ることに直結します。私が提訴から33ヶ月(2007年〜09年)の間に被った収入減被害は850万円にのぼることは前項で述べたとおりです。
(裁判を起こされた方はこれを肝に銘じてください。弁護士が望む解決と本人が望む解決は違うのが自然です。弁護士は勝っても負けても、裁判が終ればそこから去ります。『××事件で負けた弁護士』という評判は世間には知られません。裁判の恥辱や汚名を背負って生きなければならないのはご本人だけなのです) ですから、私の生活は、33ヶ月間、裁判を中心に回らざるを得ませんでした。。裁判所での法廷、協議の日程を裁判所が決めると、それに合わせて弁護団が会議をしたり、意見書を依頼すべくメディア・法律学者に面会に行ったり、証言してくれそうな人に頭を下げに行ったりのスケジュールが続々と入ります。その合間に収入源である仕事を何とか入れるという毎日でした。当然、収入は激減しました。 ところが、こうした法廷外で発生する「裁判コスト」を、裁判所は一切考慮しません。判決内容に盛り込まれることもありません。「裁判準備による収入減額分を賠償金額に上乗せしなさい」なんて判決は出ません。 わかりやすい話。提訴されて裁判準備で時間がなくなり、仕事が激減しても、それで失った利益を裁判所は賠償金額に算入しません。ですから、裁判で勝っても、裁判がなければ得られたはずの利益を計算すると、賠償金額は割に合わないのです。
「烏賀陽さん、病気になれば、入院したり何だかんだでおカネがかかるでしょう。病気になったと考えればいいんですよ」 と意味不明の説明(笑)をしてくれました。オリコンという意志を持った主体が起こす裁判と、誰の意志でもなく(敢えて言うならウイルスとか病原菌の意志ですかね)かかる病気をどう並べて論じることができるのかさっぱり理解不能です。が、裁判官の思考だけは伺い知ることができます。 「法廷外のコストは病気になったと思ってガマンしろ」 そう黒津裁判官は言っているのです。あなたが訴えられたことで法廷外に発生したコストを裁判所は一切配慮しません。そう言っているのです。 33ヶ月で、850万円の収入減プラス弁護士費用140万円で合計約 1000万円の法廷外コスト。オリコンが私に与えたダメージです。これだけの損害を合法的に与えることができる。しかも、次に述べるように、訴状という紙切れ一枚用意すれば、悪意ある嫌がらせや恐喝・強要行為も「民事訴訟」というピカピカの合法的行為になります。 「資金洗浄」(マネー・ロンダリング)があるなら、私は民事裁判所を「恫喝洗浄の温床」と呼びたい。 (2)のような重大なダメージを相手に与えることができる民事提訴ですから、厳重なチェックがかかっていると思いきや、実態はまったく逆。言葉は悪いがノーズロ状態、ノーチェックのまま放置されています。 もうひとつ民事裁判と対になる裁判制度に「刑事裁判」があります。こちらは強盗や殺人など刑法違反事件の裁判で世間では知られています。 刑事事件は、検察庁という国立官庁が起訴(公益を代表して罪を裁判所に問うこと)しなければ裁判にはなりません。また、捜索令状、逮捕令状などの捜査の過程で裁判所の審査が入ります。 検事という法曹資格を持った国家公務員(だからといって判断がいつも正しいことにはなりませんが)が訴えを起こすのだから、裁判を起こすだけでも民事よりははるかに慎重で厳格な自己点検をします。法廷では弁護側に反駁されます。裁判官も起訴事実を点検します(そんな建前になっているが、あちこちで問題が起きているのはご勝利のとおり。今回は触れません)。幾重にも幾重にもチェックが入るのです。 ところが、民事訴訟は、検事も弁護士もいりません。早い話、あなた一人で起こせます。本当です。「訴状」という「私はダレカレに、何を求めます」を書いた紙を持って裁判所へ行けば誰でも起こせる。書式がわからなくても、裁判所が親切丁寧に指導してくれるカウンターが設けられています。請求金額が160万円以下なら簡易裁判所、それ以上なら地方裁判所が一審の窓口です。 つまり民事訴訟の提訴には、刑事事件のようなチェックがどこにも入らないのです。 オリコン裁判のようなあからさまな反社会的な訴訟ですら、東京地裁が訴状を受けつける段階では、中身のチェックには立ち入らない。そうやって裁判が始まってしまう。いったん裁判を始めてしまえば、相手に上記のような裁判コストを負わせることができます。
お分かりでしょうか。民事訴訟は、紙切れ一枚で、相手を攻撃できる非常にお手軽な武器です。民事訴訟でなければ、刑法の恐喝や強要罪にあたるような行為が堂々と行われている。しかもどこをどう洗っても、ピカピカの合法だと日本の法律は言ってくれています。うまくいけば公権力を使って相手の預金口座や給料を差し押さえることさえできます。 (実はこの法の抜け穴が弁護士をノーチェックの権力を濫用できる『疑似権力者』にしているのですが、それは大きな問題なので今回は立ち入りません)
4)提訴する側は常に不意打ちで相手を攻撃できる 外出するとき、玄関から空を仰いで「今日は頭上に隕石が落ちてくるかもしれない」とヘルメットをかぶる人はいません。そういう「限りなくゼロに近い確率のリスクはないものと仮定する」というセキュリティ意識の中に、私たちは日常生活を送っています。そうしないと、限りなく日常生活が不便になって破綻するからです。 07年12月に私がオリコンからの訴状を受け取ったとき、完全に不意打ちでした。 当たり前ですが、裁判を仕掛ける側は日にちを計算して周到に準備できますが、仕掛けられる側はいつ提訴されるのか予測がつかない。「×月×日に提訴しますよ」と事前に予告する原告はいません。 いつの世も、戦争を仕掛けるなら、相手が気付かないうちに攻撃をしかける奇襲作戦に勝るものはありません。 そこにドカンと提訴が落ちてきたかっこうです。
私はパニックしました。名誉棄損に強い弁護士など心当たりはありません。また、なぜサイゾーやインフォバーンが訴えられず、取材源にすぎない私が訴えられていないのか、わからない。こんな内容で審理が始まってしまうのか、まったく状況が理解できない。 慌てるべきなのか慌てなくてもいいのかすら、わからないのです。
5)返事が間に合わないと5000万円の負債 ここでもうひとつ、民事裁判が「攻撃を仕掛ける側に有利」な仕組みを説明しましょう。ここで私が「ふん。こんな破綻した提訴なんて、あほらしい」と放っておけば、どうなっていたでしょうか。あるいは、年末年始で弁護士が見つからず、期日までに返事ができなかったら、どうなっていたでしょうか。 大変なことになります。返事をしないと、私はオリコンの言い分をそのまま認めたことになり、オリコンに5000万円の支払い義務が発生するのです(『認諾』といいます)。 いえ、ウソじゃありません。裁判所が権力でそう命じるのです。オリコンは座って見ていればいい。裁判所が差し押さえ令状を発行するのです。そして裁判所の執行官が私の財産を差し押さえます。そしてオリコンに代わって私の財産を奪っていきます。つまり、オリコンは裁判所を使って、私の財産(預貯金、給与、不動産など)を強制的かつ合法的に奪えるのです。 そんな馬鹿な!と思われるかもしれません。が、本当です。日本の民事裁判はこんな仕組みになっている。 どこからどう見ても、攻撃を仕掛ける側、つまり訴訟を仕掛ける側に過剰に有利な構造になっている。 私が「14日しかない!」とパニックした理由がおわかりいただけるでしょうか。14日のうちに裁判所に「(オリコンの主張に)争う」と返事しなければ、私は5000万円を合法的に奪われていたのです。 (この『争う』という反論も法曹村の言葉です。私は後から学習しました)。 この場面をご説明すると、なぜ個人にとって「5000万円」であれ「1000万円」であれ、その金額が恫喝と同じ効果を持つのかおわかりいただけるのではないでしょうか。 「法曹村の住民」である弁護士さんたちは「判決で負けたところで100万円くらいですから、慌てる必要がありませんよ」と悠然とおっしゃいますが、それは弁護士さんがいつでも「争う」という書面をパソコンの書類フォルダに常備していて、送付先の東京地裁書記官室の番号はファクスに登録、日常業務として慣れ親しんでいる「特殊人種」だからです。
これには私もたまげました。
私がサイゾーという雑誌をつくったわけでもないし(編集責任)、大量に印刷して書店に流通させたわけでもない(出版責任)。サイゾー編集部やインフォバーンがいたからこそ、オリコンの社会的名誉を低下させるような文書が大量にばらまかれたからこそ、5000万円もの莫大な損害が発生するのです。私一人では、5000万円の損害など発生させたくても発生させようがない。 取材源だけを民事訴訟で攻撃して、自分に不利な公的意見が出るのを妨害するという「言論の自由の侵害」である以前に、オリコンの提訴は法律論として成立しないのです。難しい言葉でいえば「共同不法行為の行為者」4人のうち3人が法廷にいないのですから。 しかし、綿引裁判長の思考がいかにグロテスクであっても、彼一人を笑うことはできません。弁護士にも複数確認したのですが、こうした「複数によって不法行為があった場合、その全員を被告とする必要はない」というのは本当だというのです。
719条第1項は次のように言います。 何のこっちゃよくわからんですね。解説を探すと、こうありました。 「数人が共同して他人に損害を与えたが、数人のうち誰が損害を与えたか不明である場合について説く。数人のうち誰かが損害を与えたことは確実であるという場合であっても、個々の侵害行為と損害の間に因果関係が証明できなければ、不法行為責 任を追及できなくなり、不当な結果を招く。そこで個々の侵害行為と損害との間に事実的因果関係が証明できない場合であって も、数人の誰かが損害を与えたことさえ証明できれば、個々の行為者について因果関係が推定される」(ウィキペディアより)
この解釈は、元々はこんなケースを想定しているそうです。 川の上流にある工場数社が汚染物質を川に流したので、下流の住民が健康被害を受けた。しかし、複数の工場のうちどれがどういう健康被害の原因になったのか、個別に特定できなくてもよい。数人のうち「誰かが」損害を与えたことさえ証明できればよい。 なるほど。これなら確かに社会弱者が複数から損害を受けたとき、訴えを起こす敷居を下げるという意味では意味がありますね。「訴えを起こす側には、複数の行為者のうち誰がどういう因果関係でつながっているのかを特定する必要はない」と言っているのですから。
まず「企業という社会的強者」が「弱者=烏賀陽という個人」を攻撃しているオリコン裁判に、この法解釈を何も考えずに機械的に当てはめている。力関係がまったく逆なのに、です。
つまり、法の趣旨を理解しないまま「共同不法行為の誰を被告にしてもよい」といういい加減な解釈だけが一人歩きしている。これは危険極まりない。 裁判官の解釈がこんな幼稚なままでは、いくらでも悪用のやり方がある。今後も、オリコンのような悪用者が出てくることを防げないでしょう。
7)民事裁判では企業も個人も平等に扱われる こうして企業や宗教団体といった組織が個人を民事訴訟で攻撃したらどうなるでしょうか。当たり前ですが、組織のほうが圧倒的に有利です。 例えば、オリコンの小池恒社長は私に5000万円の訴訟を起こすことで、何か余分な手間や苦痛、出費が増えたでしょうか。答えはノーです。 裁判コストが増えたでしょうか。小池社長は一度も法廷に来ていません。オリコンの社員すら現れませんでした。「卓照綜合法律事務所」(おそらく顧問契約をオリコンと結んでいるのでしょう)の3人の弁護士が来ていただけです。 小池社長は指先一本動かしていません。弁護士を動かすおカネも会社の会計です。小池社長のフトコロは一銭も痛まない。裁判を起こしても、小池社長はじめオリコンの役員も社員も、まったく変わらない平和な日々を送ったことでしょう。
名誉棄損で訴えられるジャーナリストはたくさんいますが、出版社も編集部も訴えなかったという悪質な例はオリコン裁判ぐらいしか知りません。出版社が一緒に被告にされると、出版社は顧問弁護士を使います。弁護士費用も出すことが多い。編集部内には編集長も参加して訴訟の対策チームのようなものが動き出しますから、まだましです。 私は、その後ろ盾さえなく、完全に一人で孤立させられたのです。それはひとえに、オリコンが私を孤立させようという悪意を持っていたからに他なりません。そんな悪意が、そのまま個人に破壊的な力で振り下ろされるのです。 こんな力の差がある者が裁判で原告と被告として対峙すれば、どちらが不利でどちらが有利か、言うのも馬鹿馬鹿しいほど一目瞭然です。 ところが、裁判所は、こうした力の差をまったく斟酌しません。両者を対等に扱います。 これも私が東京高等裁判所で黒津英明裁判官と22回も話し合ううちに、確信を持つようになりました。 私は何度かオリコンが企業組織であり、私は意図的に孤立させられた個人であることを黒津裁判官に訴えました。そして個人で訴訟を戦うことがいかに負担の重いものであるかを語りました。オリコンの提訴が悪意のある嫌がらせであることを主張するためです。しかし黒津裁判官はピント外れな答えしかしませんでした。 「烏賀陽さんにとってはね、生活を破壊されたことも大変なことなのでしょうが、オリコンにすれば社会的な評価を低下されたと思っているわけですから(以下略)向こうは向こうの言い分があるんですよ」 ここで裁判官の考えが端的に表現されています。企業組織、法人であるオリコンも、孤立した個人である烏賀陽も、対等に扱って何の矛盾もないと信じ込んでいる。 この「組織も個人も民事裁判という土俵では対等」という仕組みは、社会的弱者が提訴をして強者と対峙するためにはいいシステムとして機能していたのかもしれません。が、オリコン裁判のように強者が弱者を攻撃する手段として悪用されると、まるで逆梃子のように作用して、破壊的な力を社会的弱者に加えてしまいます。
8)日本の民事裁判制度と法律ではSLAPPを防ぐことはできない。 ここまで述べてきただけでも、日本の民事裁判がいかに「強者が弱者を攻撃する手段」として優れているか、お分かりだと思います。 まして日本には「SLAPP」という法理すら紹介されていない。日本語の文献すらないのです。私は裁判で勝つために必死で探しましたが、SLAPPに詳しい弁護士も学者も見当たりません。毎年アメリカのロースクールに何十人もの日本人弁護士が留学しているのに、彼らは一体何を勉強して帰ってくるのでしょうね。 SLAPP訴訟の教科書である「SLAPPs; Getting sued for speaking out」(Pring and Canan. 1996, Temple University Press)にはこうはっきり書いてあります。 おわかりでしょうか。上記の記述はまさにオリコン裁判そのものではなりませんか。かつてアメリカやヨーロッパで横行した訴訟の悪用現象がまさにいま、日本の民事裁判で頻発し始めているのです。 SLAPPのように企業や団体といった社会的強者が民事訴訟を弱者への攻撃に悪用する現象は、日本だけではなくアメリカやヨーロッパでも70〜80年代に発生したのです。そうした民事訴訟の悪用を防ぐために、アメリカですとあちこちの州で1990年代に反SLAPP条項が生まれました。
ちょっとまとめてみましょう。 オリコン裁判のようなSLAPP訴訟を裁判所は想定していない。 →自分に不都合な公的な意見表現を妨害するために、力のある誰かが民事裁判を悪用することを、裁判所も法律も想定していない。 →現在の日本の裁判所と法律ではSLAPP訴訟を「不法行為」に問うことはできない。 →オリコン裁判のようにあからさまに訴訟の悪用とわかる提訴ですら憲法で保障された「裁判を受ける権利」を理由に止めることは できない。 →提訴そのものを不法行為として賠償を求めることもできない。 →民法なり民事訴訟法なりを改正して「反SLAPP法」を立法しない限り、今後もSLAPP訴訟の被害者が出ることは防止できない。
9)日本にも反SLAPP法または条項が必要な時代が来た 今の日本の民事裁判が「強迫」「強要」という刑法違反行為を合法的にやってしまえる「合法的強迫の温床」になりうることはおわかりいただけたと思います。 実はこれ、みなさんの素朴な日常経験でもそうではないでしょうか。「訴えるぞ」とか「裁判所で争う」が脅し文句になってしまうことはありませんか? 弁護士が出てきただけで、絶対君主を前にした農民のように震え上がるなんてことはありませんか? こんな「ノーチェックの権力濫用状態」は排除しなくてはなりません。権力の行使には必ずチェックが必要です。でないと、民主主義国、法治主義国として恥ずかしい。
*提訴する権利はそのまま広く保障する。
*動議が出たら、裁判所は提訴がSLAPPであるかどうか審理する。その間は提訴そのものの審理は止まる。 される。被告に裁判コストは発生しない(あるいは最小限に抑えられる)。 *裁判所がSLAPPだと認めなかったら、本来の訴えの審理に入る。 SLAPPの定義をもう一度引用しておきます。この全てではないにせよ、かなりの部分は裁判所が「この提訴はSLAPPかどうか」を審理するための指標となるでしょう。 1)刑事裁判に比べて裁判化が容易な民事訴訟である。 2)公的問題が論点になっている。 3)訴訟の原告・被告はその公的論争の当事者である。 4)その公的問題について公的発言をした者(主に批判者や反対者)を標的に提訴される。 5)提訴する側は、資金・組織・人材などの資源をより多く持つ比較強者。 6)提訴される側はそれらの資源をより少なくしか持たない比較弱者。 7)提訴によって、金銭的、経済的、肉体的、精神的負担といった裁判コストを被告に負わせ苦痛を与える。 8)こうした提訴による苦痛を与えることで、原告は被告の公的発言を妨害、抑止する。 9)訴えられていない潜在的な公的発言者も、提訴を見て発言をためらうようになる。 10)提訴した時点で批判者・反対者に苦痛を与えるという目的は達成されるので、提訴側は裁判の勝敗を重視しない。 (『SLAPPs: Getting sued for speaking out』George W.Pring and Penelope Canan. Temple Univeristy Press,1996)
最後に、なぜ日本の裁判制度と法律ではSLAPPを防げないのか、歴史的な背景を参考情報として付けておきます。
しかし、これは少し考えればすぐにおかしな話だと気付くはずです。戦後の日本国憲法は、戦後民主主義の最高法規として成立しました。その基本理念のひとつは、戦前にあった財産や性別、階級による社会的権利の差別をすべて撤廃することです。 例えば、戦前の日本では女性に選挙権はありませんでした。本当です。1945年まで、女性は投票も立候補もできませんでした。いまの参議院にあたる貴族院議員は、選挙ではなく、皇族・華族などから官選で選ばれました。任期はなく終身制でした。 が、戦後民主主義は、こうした差別をすべてブルドーザーのように破壊して、少なくとも制度上は、真っ平らにしてくれました。 その下に生まれた戦後民事裁判は、財産や性別の差別なく、社会的弱者が社会的強者と対等に利害を主張できる「平等化の場」として生まれたのです。ですから、弁護人を雇わなくても本人でも訴訟は起こせるし、訴状一枚書けば訴訟を起こせるようになっている。敷居が限界までミニマムに下げてあるのです。当時の社会的弱者が強者に対抗する場所として使うなら、民事裁判所は非常によくできた仕組みだったと言えるでしょう。 そしてこうした「差別を撤廃する」という理念の上に「裁判を受ける権利」があったのです。つまり「裁判を受ける権利」は社会的弱者の権利が侵害されないためにあったはずだ。 財産や性別、身分が生む社会的な力の差で「泣き寝入り」しなくてもいい。いつでも裁判所に駆け込んできてくれれば裁判所は社会的弱者にも強者と平等の発言件を与える。そうやって社会的弱者を保護し、社会的強者の権利の乱用を防ぐ。そんな目的のために「裁判を受ける権利」が保障されていたはずです。だからこそ、国民から強制的に集めた税金を投入して、全国津々浦々に裁判所が設置されているのです。 が、そうした設計思想は64年前のものです。「強者と弱者を対等に扱う」という場所が、強者が弱者を攻撃する手段に使われたら、どうなるか。実は、戦後すぐにできた民事裁判は、そんなことまでは想定していない。そのころ、日本はまだ世界最貧国です。戦争の破壊から立ち直るのは1950年代半ば、まだ10年待たねばなりません。高度経済成長もまだ先です。身分や財産による差別がなくなったあと「企業」が社会的強者として再び姿を現すには時間がありました。 そして、今や日本は当時とはまったく別の社会に変貌しました。財産や身分、男女差による「社会的弱者・強者」という対立軸は、なくなったとはいいませんが、後退しました。いま「企業対個人」あるいは「組織対個人」のような財力・組織力の格差が新たな社会的弱者・強者問題として浮上しています。 公害問題がそうでした。製造物事故もそうです。どちらも、企業という強者の前に、一個人である被害者の権利を守るのは非常に難しかった。
(2009.10,9)
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